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邂逅 その2 PCI


 狭心症や心筋梗塞を発症したら、現在ではPCI(経皮的冠動脈インターベンション)治療が標準治療となっています。世界で最初に行ったのは、スイス、チューリッヒのアントレアス・グリュンツィツヒ医師で、バルーンカテーテルによるPCI(PTCA)でした。1980年代に入ると、その低侵襲性から急速に普及し始めました。1987年アメリカ心臓病学会(ACC)は心臓カテーテル検査とPCIを受ける患者のデータを標準化することに着手しました。そして、1990年、PCIを含む血管疾患治療に関するガイドラインが出来上がりました。日本で初めてPCIを行ったのは1981年、現在の小倉記念病院院長の延吉正清先生です。それまでは心臓外科医がバイパス手術するのが主流でした。バイパス手術は、全身麻酔をした上で、開胸する必要があり、患者の身体的・精神的負担はとても大きなものでした。延吉先生は1974年、小倉記念病院に赴任直後から冠動脈造影に取り組み、1981年、日本で初めてのPCI(PTCA)を行いました。しかし、1年間に行ったPTCAの3症例はガイドワイヤーが通過せずすべて失敗、スタンバイしていた心臓外科チームに救われました。周囲(特に心臓外科医)から非難の声があがり、「中止しろ」とまで言われましたが、4例目に90%狭窄の74歳の男性で初めて成功しました。数時間かかるバイパス手術を回避し、わずか10分で済むPCIは、現在小倉記念病院だけで、年間3000例を超えます。延吉先生はそれだけではなく「小倉ライブ」と題して自分の心臓カテーテル治療を生中継する日本初の公開手術(ライブ手術)や、若い医師に対する心臓カテーテル治療の技術指導を行い、日本に心臓カテーテルを広めました。私が大学病院の救命救急センターを離れて、ちょうど小倉北区の救急病院に勤務していたころ、PCI(PTCA)のライブ手術をすることになりました。手術室に入るのは3人の医師で2方がガラス張りです。周囲にカテーテルメーカー・大学病院の医師・医学研修生を含め、総勢40人ほどが見学に来ていました。私はPTCAの際、カテーテル先端のバルーンの圧をかける係でした。2時間ほどで5人行いましたが、その中の一人に圧のかけすぎで血管内膜がはがれていくのが確認できました。延吉先生に言うと、「大丈夫、大丈夫」としわがれた甲高い声で言い、気にする風もありません。そのまま圧を上げるように指示を受けました。結局何事もなくおわったのですが、こちらは冷や汗ものです。延吉先生にはたくさんの逸話があって、いくらでもでてきます。髪はいつも長髪、バサバサで、オペ室に入る時は消毒・手洗い・ガウン・手袋を装着しますが、オペ中に汗が付いた前髪をその手の甲で払うのです。映画やドラマで看護師が術者の額の汗を拭くシーンがありますが、延吉先生はどういうわけかオペ室に看護師を入れませんでした。延吉先生からいただいた「新冠動脈造影法」の本は今でも大切にも持っています。いわば循環器内科医のバイブルです。PCIの際のインターベンションは大腿動脈から挿入するジャドキンス法と上腕動脈から挿入するソーンズ法がありますが、どちらもカテーテルメーカーの作ったものは気に入らず、自分の気に入った角度のついたいわば「延吉カテ」をメーカーに作らせていました。1985年に「第1回日本冠動脈形成術研究会」を設立、これが1992年には「日本心血管インターベンション学会」となり、2001年に「日本心血管カテーテル治療学会(JSIC)」へと発展していきました。2003年3月11日、NHKプロフェッションル「仕事の流儀」で、延吉先生の昔とかわらない姿を見た時は、自分がお手伝いした時のことを懐かしく思い出しました。


2025.12.3. 氷川台内科クリニック 院長 櫻田 二友

 

 

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